昭和44年12月05日 朝の御理解



 北九州教務所から、連絡がございました。あの前にも通知があっとったのかもしれませんですね。昨日、またやってきて、今度の十二月の報徳祭の、団体参拝のことがいうてきてるんです。それで今日までにその、五日までに至急、何名参拝するかと。私は団体参拝の汽車は何時の筑紫かなんかという急行に決められておるから、それに乗るようにというような意味の、通知を受けたんです。
 所が私はその前のを見ていませんのですから、まだ実際の所申し込みはどうでしょうか。十人位あっているでしょうか。それもここにお届けがあっておるというだけで、正式に申し込みというわけではないのですけれど、もういつもこの四神様のお祭りいわゆる、三代金光様と四神さまの報徳祭で御座いますから、年末の事ですから今年の最後の十二月のお参りでございますから、年末一年中のお礼を兼ねそしてまた。
 この正月にお参りもまた青年会の方達が、正月に元旦祭にお参り致しますけれども、ここから一般ではお参りを致しません。そいでまあ今年中の御礼も兼ねて、同時に来年のことをお願いもほんとに今まで、この十二月の報徳祭は非常に多かったんです、お参りがですね。皆さんも御承知のとおりですがところが、今日今度は全然呼びかけも致しませんし、以前は私はお参りのできる人は普通。
 いつもお参りいわば以前は月参りをしておりましたから、月参り組の人たちの名前をずーっと書いて、もしこの中からお参りのできない人は、自分で消していくようにというような方をとってましたから、まあ、よんどころなしお参りしたのかもしれませんけれども、とにかく十二月は多かったです。ところがもう最近私がもう、ご本部参拝、この、百十年の記念祭の時でも。
 私が皆さんにいちいち、勧誘してお参りをするといったようなことを致しませんし、ま、お参りしたいという人達がみな付いてくるだけなんですけれども、やはり事務的に、いろいろするためにやっぱそれ前に、ちゃんと人数も決まっておらなければなりませんし、どういうことになっておったのか、分かりませんけれども、急なことですから。高橋さんが、お参りして見えたから、いろいろ調べてもらって。
 まあ今日連絡とって頂くわけになっとりますから、そのことを神様にお願いをさせて頂いておりましたら、まあ、頂くことは、まあ別として、その後に教典を開かせて頂きましたら、二十六節の、「信心に連れはいらぬ、一人信心をせよと、信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが、みな逃げておるぞ、日に日に生きるが信心なり」と、これは信心に連れはいらぬ、お前が一人お参りすれば良いじゃないか。
 そしてお参りしたいというものだけ、付いてくるだけで良いじゃないかと誰さんも参んなさい、かれさんも参んなさい、そんな実をいうたら逃げておるぞと、言われておるような気が致しましたし。次にまた人に二十四節ですね、二十四節の「人に誘われて、しょうことなしの信心は付け焼刃の信心じゃ、付け焼刃の信心はとれやすい、どうぞその身から打ち込んでの、真の信心をせよ」と。
 ここんところをこう頂くんです。ですからその、真の信心をせよと、まあ真の信心ていうことは、いつも言われておるわけでございますけれども、真の信心の、その一番、原動力とでも申しましょうかね、そういうものになるものはです、やはりその身から打ち込んだものでなからなきゃならん、もちろんその身から打ち込むというても、焦点を間違えておったんではです。
 そりゃ、意味ないしですけれども、焦点を間違いないところに置いて、そしてその身から打ち込んだもの、例えば、ご本部参拝なら御本部参拝ということは、ま、こりゃ絶対間違いのない信心でしょうね。信心させて頂く、お道の信心させて頂くものが、御本社にたとえば、お礼参りをするというのですから、こんなに間違いないことはないと思うんですけれど、そういうご本部参拝なら御本部参拝という。
 その間違いのないそのことにでもです、やはりその身から打ち込んだ信心であって、始めて真の信心ということになるんです。椛目時代に、ああして月参りを致しておりました。もうどんなことがあっても、もうこりゃ絶対という人が段々増えてまいりましてね、もう月参りは、親先生のお供をしてお参りするもんだと、もう決め込んでのお参りでした。あのころの信心こそ、真の信心であり。
 またそういう生き方であったなぁというふうに思うんですけれども、この頃何とはなしに、その誰も言わんなら申し込みもするまいと言った様な、雰囲気がでけてきたんじゃなかろうか。こりゃまあ合楽の信心として由々しきことだと、ま思わせて頂くんでございますがその身から打ち込んで、例えば親先生がご本部参拝をされる、そのときにはもう絶対お供をするもんだと、決め込んでおるような信心がですね。
 いわばそれこそが、真の信心だということになるわけです。ですから毎日お参りしよるから、ご本部参拝せんでもと、言うような私は熱情が欠けておるなというふうに、こりゃ私一人のことじゃない、私自身のことだとして、ま思わせて頂くんでございますがね。さ、そこで私がそのそういうことになってきたおかげの原因と、じゃないそういうことになってきたことの原因というものをです。
 ま、追求させてもらう、それは、ま、結局私自身のことなんですけれども、どういうことが原因になっておるかと言うとですね、教えに慣れ、おかげに慣れ、慣れるということ。毎日毎日こうやって御教えを頂いておるが、その御教えに、毎日毎日有り難い御理解だった、始めていただいた御理解であったと言うてはおるけれども、それはもう慣れっこになってしまってるということ。
 思うてみれば、ほんとにどちらを向いてもおかげを受けておるなーと、そのおかげを受けておるということに対してだけでも、お礼参拝させてもらわなきゃ、相済まん、のにいわば、そのおかげはもう当たり前のこと、信心しておるから当たり前のように思うて、無い命を頂いた人もある。どうにもでけない問題の、解決が日々お取次を頂いて、働きの中からおかげを受ける。
 まあ、いうならば、もうおかげはもうそれこそ山ほど頂いておるけれども、あまりおかげの中に、私どもは浸りすぎておるような感じがする。そこで、結局どういうことになるかと言うと、さあ、御本部参拝だと言うても、だぁれもその、動こうともしないような結果が、生まれてくるのじゃないだろうかと。今朝、そのことを頂いて、ご本部参拝のこととを思い合わせてからです、頂きますことが。
 二十六節、二十四節のその一部んところ、信心は連れは要らんと仰るが、こりゃまあ、私自身としては、ま、連れは要らんから、誰来なさい、かれ来なさいと言うて連れて行くことはいるまい。それでもお参りしたいと言う人がいりゃ、五人でも十人でもお参りすりゃいいんだと、なるほど、みなが逃げておるぞと、さあ、誰も参りなさい、かれも参りなさいということは、こりゃ心でははあ、先生がああ言いなさるけんで、しょうことなしに参りよるじゃないだろうかと、いうように感じます。
 そいで二十四節に、また人に誘われて、しょうことなしの信心では、付け焼刃の信心じゃ、付け焼刃は取れやすい、どうぞその身から打ち込んで信心をして信心、打ち込んでの真の信心をせよとこう仰る。真の信心を目指させてもらうということは、間違いのないことに、そこに焦点を置いて、そこに熱情をかけると言うことこそが、真の信心、それはどうでも、こうでもという熱情なのだ。
 御本部参拝は、どうでもこうでもと心に定めさせてもろうて、心に決めさせてもらっての、信心が必要ではないでしょうかね。今日、ま、私の話しを頂いて、ほっと、本然として、心の中に、はあ、そうだったなあ、おかげに慣れておったな、教えに慣れきっておったなと、ま、気付かれる人があるなら、申し込んでお帰りにならなければなりませんね。今日はこれで終わらせて頂きます。何でも慣れるということが一番怖いですね。もうさらな、生き生きとしてものがないですね。慣れっこになっちゃいけませんね。何とか工夫しなきゃいけません。